研究内容
私たちは「細胞記憶」の研究をしています。ちょっと説明は難しいですが、「DNA塩基配列の変化を伴わずに継承される遺伝子発現プログラムの変化」を研究する学問分野です。専門用語ではエピジェティクスと呼ばれています。
この細胞記憶という現象を説明するのに、一卵性双生児の例がよく使われます。一卵性双生児は全く同じDNA配列をもつので、外見は大変似ていますが、性格が全然違ったり、病気のなりやすさなどに差があったりします。この違いを生み出しているのが、生まれてからうける外部環境からの刺激の違いです。この刺激の違いが何らかの形で細胞のDNAに記憶され、その後の人生でずっと残ることで、一卵性双生児間の違いとして現れると考えられています。このような細胞記憶は、基本的には私たちが生きていく上で大切なはたらきをしているのですが、場合によっては、それが異常な働きをして病気の原因になったりもします。
この細胞記憶の異常な働きの例として、「オランダ飢餓の冬」が知られています。第二次世界大戦時にナチスドイツ占領下のオランダの一部ではひどい食糧難に陥り飢餓となりました。この飢餓は、多数の餓死者を出ましたが、生き残った人たちにも深刻な影響を与えたことが、その後の研究で明らかになります。妊娠期にオランダ飢餓を経験した母親から生まれた子は将来肥満になりやすいことがわかりました。また高血圧、心疾患、2型糖尿病になる人も多いことがわかりました。なぜこのようなことが起こるのかは、詳しい理由は長い間分かっていませんでした。しかし、一時的な外部環境の変化(食糧難による飢餓)が、何らかの形で母体内の胎児の細胞に記憶され、それが出生後の長い生涯にわたって遺伝子の活性に悪影響を与え続けているのではないかと考えられていました。この「細胞の記憶」の実体が、DNAなどにつく小さな小さな化学修飾(DNAのメチル化など)であることが、妊娠動物モデルを使った最近の研究から明らかになりつつあります。
「どのようにして遺伝子発現のオン•オフが適切なとき、適切な場所で行われるのか?」シンプルな質問ですが、いまだ私たち研究者の理解はその途上にあります。この問いを考えるときに、エピジェネティック制御を理解することは間違いなく重要です。エピジェネティック制御は、個体発生や細胞分化、がん化、老化などの生命現象に関わっていることがすでに明らかになってきています。私たちは、この「細胞記憶」という現象とその背後にあるエピジェティック制御に着目し、病気の予防や治療薬の開発に貢献できるような研究を展開していきたいと考えています。